birdflow’s blog

無為自然な生き方

重度の片頭痛の辛さというのは

計り知れないものがあり

にも関わらず

何の保証も無いというのは

科学の限界というのを感じる

 

私のように

治療法のない病気ばかり罹っている人は

多くないかもしれないが

それだけでも

治療法の確立していない病気が

如何にまだ尚多くあるか身に染みて感じる

 

実は私は

片頭痛の前兆である閃輝暗点

メニエール症候群と診断されて

頭痛に関しては緊張型頭痛と診断されていた。

 

しかし余りにも何の改善も見られず

最近になってようやく重症度の片頭痛

診断された。

 

正直

似たような方は少なくないのでは?

と思った今日この頃である。

 

 

 

動物を飼うということ

最近改めて思ったこと。

 

犬猫などの動物を沢山飼ってるからといって

動物の気持ちをわかってるわけじゃない

ということ

犬猫を好きだから買ってるのと

犬猫の気持ちがわかるのは別

 

例えば

個人で野良猫のはが活動されてる方がいるけど

子猫だけ連れて行くのはもう

人間目線、人間都合でしかなく

団体の方でも

慣れさせるために一生懸命

お世話をするけど

それも人間都合、人間主体でしかないから

動物のペースでしないと 彼らに負担がかかるだけになってしまう

 

うちに来る犬猫は

それまで食べてたフードを食べない子が殆ど全員で

のんびりゆったりペースになるから

自然にさせている

 

でも

元の人間さんから

色々

こうしてああしてと

連絡がめっちゃ来る

 

殆ど無視してるけど

人間のペースで

人間が考える犬猫の幸せと

犬猫が考えるそれは

一致しないことも多い

 

新しい猫ちゃんが来て

なんかそれを実感させられた

善意という呪縛

病気を持っていたら

 

ヒーリングしてあげる、と

ヒーリングしてくれたり

霊気送ってくれたり

神社仏閣に祈祷しに行ってくれたり

お守りくれたり

色々してくれる人たちがいます。

 

勿論私の許可なくです。

 

それは善意なのか?

それとも人の為という正義なのか

 

人によってはありがたいでしょうし善意なのでしょう

 

しかし

宗教やスピ的なそれを信じていない私にとっては

善意でもなんでもなく

ただ迷惑なだけだったりします。

 

信じてるものは人それぞれ違うのに

日本人は特に

同じ

と考える人が特に中高年には多い気がします。

 

真言密教修験道の違いも分からない知り合いが

勝手にご祈祷続けてくれていたようで

この1ヶ月ほど病状が悪化してしまってました。

 

信じるものは救われる

というけれど

信じないものは救われないわけで

肉体は拒否反応起こしてしまいます。

 

ぜひ許可なく行う事は

やめてもらいたいです。

 

感覚神経の欠如と歩行不可能な現実

先日脚の神経の検査を受けました。

なぜ歩けなくなったのか?

調べるためです。

 

自分は11歳の頃

虐待により頸椎損傷し、神経が圧迫されて細くなった影響で

次第に脚の筋力低下し歩けなくなったのかとDr.と考察してました。

しかしそこまで力が入らない説明ができず

神経の影響を調べることになったのです。

 

下肢筋力低下してる事は分かってました。

結果は

下肢の運動神経は全く問題なし

下肢の感覚神経は全く反応がありませんでした。

 

Dr.から

運動神経が活きていても

感覚神経がないから力の入れ方も分からないし

どう動いてるのかも分からないから歩けない

と説明された時

 

私は

じゃあ練習して脚をちゃんと見て歩く練習したら

歩けるようになりますね!

と1人テンション上がりました。

 

しかしDr.から言われたのは

 

運動神経あっても感覚神経ないと

運動神経に制限がかかるため

曲げ伸ばししたりするくらいしか出来ない

 

と言われ

歩けるようになる事はないんだ

という事実を突きつけられると

流石にショックでした。

 

気力どうにかなる病気ばかりではないのだなと

 

 

 

線維筋痛症ではなかった解った全身症状の病名けんさ

病院を転院して半年程経ちましたか

 

色々な検査の結果

長年不明だった身体症状の病名がやっと全て解りました。

 

まず

10年ほど前

線維筋痛症と診断された全身の痛み

線維筋痛症対応の抗うつ剤を服用していましたが

神経内科のDr.は難色を示し

私のある一言で病名が解りました。

その一言とは

頸椎神経のトローチタイプの薬を服用していますが

それがどうしても溶けない

と言った事でした。

 

検査の結果

シェーグレン症候群

と判明しました。

全身乾燥してしまう自己免疫疾患で

線維筋痛症も症状の1つです。

 

自分の場合

ドライアイ

ドライマウスも酷く朝起きると乾きすぎて喉が痛い

皮膚乾燥は

無印の高保湿乳液を1日何度も全身塗りたくり

湯船に浸かると寒くなってしまい

シャワーか超ぬるま湯に5分程度

石鹸を手で全身洗い

毎日は入れません

 

内臓機能不全もあり

とにかくシェーグレン症候群全ての症状が当てはまって

しまってました。

 

特に眼の検査では

涙が殆ど出ていないと

しかも

ヴィジュアルスノー症候群と同時に判明した

両者とも治療法がないと言われ

流石にショックを受けてしまいました。

 

自分の場合

レアで治療できない病気ばかりで

流石に凹んで家に帰って

泣き叫んでしまいました。

 

今は兎に角

処方された目薬(今の所効いてない)と

加湿器きかしまくり

家でもマスクをして

乳液塗りまくり

定期的にベッドで休み

無理をしない、気分転換をする

という生活です。

 

線維筋痛症は最終診断なので

ほんの一言で病名が判るかもしれませんよ。

 

 

ADHDの特性とO型血液型の類似性について考える

普段YouTube 以外のSNSは見ないのですが

先日気晴らしにある動画サーフィンをしていた時

懐かしい血液型別性質

なるものを紹介しているものがありました。

それがとても興味深かったのです。

 

O 型の特性を見ていたのですが(夫がそうなので)

その特性があまりにもADHDの特性と似ていたので

ビックリしたのです。

夫がADHD重度と診断されているのですが

それがO型の特性と一致していたので

 

もしかしてADHDって単なる性格というか

個性の範囲内なのではないかと思ってしまったのです。

ASDは元々統合失調症から分離した病気とされており

脳の異常関係している事がが研究で指摘されているのに対し

ADHDはまだ比較的新しいもので

過剰診断が問題視されている現状があります。

遺伝性の原因が大きく残りは環境や食事の影響が

指摘されていて、幼少期と大人それとは区別もされています。

正常範囲内であることも多く、そのような場合に

治療をする事は逆に問題が出ることも指摘されています。

つまり

はっきりした先天性であるという原因は

遺伝性であるパーセンテージが大きいということが

指摘されているだけで、社会生活において支障をきたす

行動障害の場合にのみ、診断されるもの

というのが医学的検知になっています。

 

という事は

発達障害と言えるのか?

何を基準に発達障害なのか?

という疑問が生じます。

なぜなら、発達障害は元々神経性に何らかの異常が見られる

という基準だったからです。

日本とアメリカでは食い違いもありますが、

日本の精神科医などは

安易に発達障害と騒ぎすぎでは?

と思ったのです。

 

定型発達でも問題行動取る人は多く

批判覚悟で言いますが

性格的に問題があるのは

環境要因も大きく定型発達の方が

イジメや人を妬んだり攻撃したりしますよね。

少なくとも私が知る限りそういう方達の中に

発達障害の人がいた事がないからです。

ADHDである夫は

同じことをいつも間違えるし忘れるし

決まったルーティンとかできないし(仕事でも)

全体を把握出来ないしアイディアはあるけど

優先順位がわからないのでめちゃくちゃになる事が

殆ど。

ASDの私は振り回されます。

しかし、そういう性格だと分かれば逆にこっちが

優先順位書いて貼って(守ってもらえない事多いけど)

気にしないよう放置する方がお互いストレスなく

過ごせます。

行動障害より性格障害の方がよほど問題だと私は思います。

 

夫に血液型の特性と同じだったと伝えると

発達障害という枠が外れたようでした。

 

長くなりましたが

自分はやっぱり発達障害という枠組みは

定型発達目線でしかなくその基準も曖昧で

要らないんじゃないかと思ったのです。

カサンドラ症候群について思うこと

最近また

カサンドラ症候群の記事とかを見ることが多く

モヤっとしたことがあります。

 

なぜASD(アスペルガーも)だけ対象みたくなってるのでしょう?

はっきり言ってしまえば

なぜASDばっかり悪者みたいな、腫れ物に触るみたくなるのでしょう?

 

確かにコミュニケーションが取れない、意思疎通も共感もしてもらえない

ということは家族、特に配偶者にとって致命傷のようになるであろうことは

理解できます。

しかし殆どが定型発達目線であることは仕方ないにしても疑問があります。

 

逆も然りという発想はないのかなと。

 

まあ例えば

定型発達の人は

褒めて欲しいとか

慰めて欲しいとか

わかって欲しいとかって前提で

話したりすることあると思いますが

ASDはそこ分からないので出来ません。

気持ち分かってよって事も

例えば

寂しいならそう言ってもらわないとわからない。

合理的に考えるとこがあるので

確かに

それで?(どうしてほしいの?)

と質問したくなるのを抑えたりと言った努力が

出来るようになる人もいるし

基本自分のルーティンを維持したいですし

急に違う予定入れられたり言われたりしたらパニックなりますし

扱いにくい、一緒に暮らしにくいだろうことは分かります。

 

要は

自分のペースを乱されたくない。

そこを尊重してほしい

 

それは個性として認められないものなのだろうか?

 

 

例えば

拘りが強く自分のルーティンを保持したいASD

ある意味自由なADHDが一緒に暮らすと

ペースを乱されるASDの方がストレスフルに追いやられる

という結果もあります。

 

ASDにしたら

定型発達の考え方や世界観が同じように理解不能

ストレスにもなる

そこは両者間同じなのだから

違う人間として多面的な関係性として協力していけないものなのか

 

発達障害目線でもっとこう

みてもらえる社会が多様性でもあるのではないのかと

自分はそういう世界にいたい