birdflow’s blog

無為自然な生き方

カサンドラ症候群について思うこと

最近また

カサンドラ症候群の記事とかを見ることが多く

モヤっとしたことがあります。

 

なぜASD(アスペルガーも)だけ対象みたくなってるのでしょう?

はっきり言ってしまえば

なぜASDばっかり悪者みたいな、腫れ物に触るみたくなるのでしょう?

 

確かにコミュニケーションが取れない、意思疎通も共感もしてもらえない

ということは家族、特に配偶者にとって致命傷のようになるであろうことは

理解できます。

しかし殆どが定型発達目線であることは仕方ないにしても疑問があります。

 

逆も然りという発想はないのかなと。

 

まあ例えば

定型発達の人は

褒めて欲しいとか

慰めて欲しいとか

わかって欲しいとかって前提で

話したりすることあると思いますが

ASDはそこ分からないので出来ません。

気持ち分かってよって事も

例えば

寂しいならそう言ってもらわないとわからない。

合理的に考えるとこがあるので

確かに

それで?(どうしてほしいの?)

と質問したくなるのを抑えたりと言った努力が

出来るようになる人もいるし

基本自分のルーティンを維持したいですし

急に違う予定入れられたり言われたりしたらパニックなりますし

扱いにくい、一緒に暮らしにくいだろうことは分かります。

 

要は

自分のペースを乱されたくない。

そこを尊重してほしい

 

それは個性として認められないものなのだろうか?

 

 

例えば

拘りが強く自分のルーティンを保持したいASD

ある意味自由なADHDが一緒に暮らすと

ペースを乱されるASDの方がストレスフルに追いやられる

という結果もあります。

 

ASDにしたら

定型発達の考え方や世界観が同じように理解不能

ストレスにもなる

そこは両者間同じなのだから

違う人間として多面的な関係性として協力していけないものなのか

 

発達障害目線でもっとこう

みてもらえる社会が多様性でもあるのではないのかと

自分はそういう世界にいたい