春分にあたりー夢に注意を払ってください。そうあら
春分の日を前にして自然の存在から受け取ったことがあるので
書いてみます。
まず知ってほしいことは、
自然の存在ー特に龍さんとか、光の存在も然りですが
人間それぞれの夢に働きかけメッセージを送っているそうです。
私もここのところ頻繁に夢を見ています。
できるだけ夢を記録してください。
書き続けてると覚えていられるようになります。
まず龍さんの重要なメッセージから
◯我々龍、光の存在、闇の存在はそれぞれの思考に働きかけている。人間社会が変わって行ってる。これからますます変わるだろう。残念ながら取り残される人間もいる。そうならないよう各々が自分を浄化し、自分これまでの環境をひっくり返す必要があるそうすることで人間の光が強くなる(満たされる)。我々は人間をサポートしている。
補足ー闇の存在というのは自然界の存在で、主に人間の感情面をサポートする存在。
今人間は強烈な守護を受けているようです。
◯夢で受け取った開運法
1、笑顔、睡眠、食事を大切にすること
2、嫌な記憶を抜くこと
3、体を整えること(病気を治す)
補足ー1、嫌な記憶を抜くとは、過去の嫌な出来事を忘れるということ。記憶がメンタルに影響与えているだけなので記憶を消す事で現在に集中できるという意味。
補足ー2、病気を治すと言っても治らない病気の人もいるので、その場合も悪いなりに体を整えるということが大事要は肉体を大事にするという意味。
◯最後のメッセージ
頭から情報を締め出せば人間はもっとシンプルに生きられ、人生を間違うことも失敗することもない。情報を入れすぎるとその逆になる。マニュアルやガイドも然り。情報を全て頭から追い出すと自分に頼らざるを得なくなる。自分の感情、感覚など。それが人間本来の生き方。シンプルに成功して生きられる方法。
今回は以上です。
全ての人間が夢でメッセージを見せられているようなので
意識してみてくださいね。
因みに夢でメッセージ受け取ると起きた時疲れてるのでそれで判断してみてくださいね。
成長という言葉への違和感。高める事で魂の本質を引き出す
貴方は未熟な芽ではないー自己受容し、より洗練された状態へ進化する、主体的アプローチの提唱
なぜ(自己)成長という言葉に違和感を持つのか?
私は自己成長という言葉が嫌いです。それは、この言葉が不適切表現であり、現在の自分を過小評価しているように感じるからです。
多くの自己啓発やスピリチュアルな場面で「成長」推奨されますが、この言葉を使う度に無意識に
「貴方はまだ未熟な芽の段階です」
という否定的な前提を自分に課しているように感じます。
私は大人である自分を「まだ成長が必要な存在」と見做すのではなく、「自分を高めていく」という表現が最も適切だと考えています。これは謙虚さとは違う自己受容に基づいた主体的で前向きな姿勢です。
貴方は芽ではなく木である
私たちは皆、この世に赤ちゃんとして生まれてくる時、魂は純粋かつ完全な状態で既にその本質は完成されているはずです。
それはこれから大きくなっていく「芽」ではなく、「木」の状態ではないでしょうか。
そこから私たちは、肉体的な成長と共に、社会の様々な規範やネガティブな経験を吸収し、時に純度が薄れ枯葉を纏った状態になってしまうこともあるでしょう。しかし、どれほど枯れようと木はあくまでも木、その本質は変わりません。
大人である私たちが目指すべきは、不足している何かを付け足す事ではなく、本来持っている木の質を磨き上げ、不要な枯葉(ネガティブな感情やシャドウ)を取り除く事ではないでしょうか。
魂は完全。だからこそ成長ではなく高める。
魂の成長という言葉も、私は違和感があります。魂が純粋で完全な存在であるならば、成長する必要はありませんよね。
1、魂は本質的に完全である。
2、人間として生きる中で、様々なブロックやネガティブな感情によって、その完全な性質を抑え込んでしまう。
この視点から見ると、足りないものを成長させる事ではなく、魂本来の完全な性質や能力を肉体としての自分が制約なく最大限に引き出し表現できるようにしていく事です。
何故ならば、自分を高めるということは意識を高める事でもあり、その意識が魂と繋がっているからです。
高めるとは単にスキルを上げる事ではなく、意識という受信機の感度を上げ、魂の本質である完全な情報(知恵、愛、創造性など)との同調精度を高める行為であると考えます。
魂と意識の繋がりについて
自分の高め方
についてはまた別に書きたいと思います。
貴方は何を高めますか?
成長という言葉が持つ時にのネガティブな前提から解放されましょう。
私たちは未熟だから学ぶのではなく、既に完全だからこそより、洗練され、その本質を最大限に活かすために高めるのです。
今の自分を受容した上で、足りないものは補い、不要なものは捨て、能力を活かし日々自分を高めていく。
今日から貴方の言葉と意識を高めるに変えてみませんか?
私は弱者ではない。真の強者とは誰か。
この社会で生きる1人の人間として
私は末梢神経障害を持ち車椅子で生活し難病も抱えています。
身体的な不便さがあること、助けを必要とする場面があることは事実です。
しかし私自身がその状況をもって弱者と呼ばれることには強い違和感、そして怒りを感じています。
助けを必要とすることは誰にでもあることではないでしょうか。
この記事は、私と同じように感じている当事者の声であり、弱者というレッテルえお貼る社会への問いかけです。
弱者という言葉が奪うものー人格の消失
世間は障害や病気、経済的困難を抱える人々を弱者と呼び、助けの対象として一括りにします。
しかしこのレッテルは、私たちから1人の人間としての存在を奪います。
例えば、夫の職場の人は私について夫に
「障害者の奥さんがいて大変ですね」と言いました。
そして私に(障害者の私を受け入れ世話をしてくれて)いい旦那さんですね」と言います。
実際は病院の送り迎えをしてもらっただけです。
誰にでもあることですよね?
この言葉に私の人格は存在しません。あるのは障害者という属性と、それを背負うおっとへ夫へも同情、そして私を助けれくれる夫への賞賛だけす。
彼らは私が夫に頼ることなく殆どのことは自分でこなしている現実を知りません。助けを必要とすることはあっても、それは私の全体の一部に過ぎないのです。
にも関わらず渡すウィ弱者とみなす態度は、多数派(健常者)の傲慢さ以外の何物でもありません。
私たちを孤立させる社会のバリア
私たちが弱いのではありません。私たちが困難に直面するのは、社会が私たちを下に見ており、理解しようとしないからです。
難病を抱える身として、悩みを相談できる場所や人が、限りなく少ないという現実があります。結果として、私たちは弱者だから守られるのではなく、1人で困難を抱え込み、孤立する道を選ばざるを得なくなります。
相談相手の不足、理解の欠如、社会制度の壁ーこれら全て、私たちが持つ身体的、精神的な弱さではなく、社会が私たちに対して築いているバリアです。
真の強さと弱さの定義
社会が私たちに弱者というレッテルを貼るなら私は問いかけます。
私たちはこの困難な社会で、1人で立ち上がり強く生きることを強いられています。これのどこが弱者でしょう?
むしろ、真の弱さとは、社会的安定という安全地帯に守られながら、身勝手な不平不満を言い、自分とは違う他者を理解しようともせず、間違った正義感を振りかざす人々の内面にあるのではないでしょうか。
困難に立ち向かう私たちこそ、精神的な強者です。
結論ーラベルではなく個人としてみてください
私たちは同情や救済の対象として弱者とみなされたいのではありません。
障害や病気を持つ以前に、1人の人間として、能力や自立心、そして尊厳を持った対等な社会の構成員として扱われたいのです。
この社会が弱者という言葉を捨て、目の前の個人を尊重し、理解しようと努めること。それが真の意味で強い社会へと変わる第一歩だと信じています。
※これは弱者と呼ばれる立場にいる1人の人間としての言葉であり、全てに当てはまるわけではありません。
永遠の命と終わりの意味
永遠の命(魂)が美しいと思っているのは
おそらく人間だけではなかろうかと思う。
魂として生きている限り
永遠に遊び暮らすわけではなく
なんらかのお役目、協力というものがある
何千年も生きていれば疲れてくることもある
たまに
永遠の命を授かった人のストーリーがあるが
決まって
「もう終わりたい」
と言われるものだ
死なない、消えないことが素晴らしいわけでもない
悲しみは伴うが
消えた魂はまた源に戻り
その一部となる
だから完全に消えるわけではない
ということにもなるが
輪廻転生が終わった後のことを想像してみるといい
と思う
宇宙にも終わりがある
星にも命の終わりがあるように
だからこそタロットのDeathのカードがある
「物事にはいつか終わりが来る
だから今この瞬間を大切に生きて」
と。
タロットは古代信仰と結びついてる
古代の人の考えは美しいと思う。
幸せにならなきゃいけない?
現ロシアの
ウラジミールヴァヴィロフが作曲した
アヴェマリアがあります。
https://https://youtu.be/AwL0yP1qF0w?si=T5MyV1CjI-BZwmSI
アヴェマリアの曲の中で自分は
最も切なく美しい旋律だと思います。
ヴァヴィロフは48歳という若さで
窮乏の中ガンで亡くなってます。
亡くなる前に書いたと思われるこの
彼は一体どんな気持ちで作ったのだろうと
思いを馳せてしまいました。
極貧というのはお腹も空いたまま、
最も苦しくなすすべもないまま
惨めな気持ちになるもの。
これほどの人はもっと幸せであるべきなのにと
思ってしまいました。
世の中と言うのは
なんと不合理なものだろうと。
そしてあることにふと気づいてしまった。
この世界は
幸せであらねばならない
という同調圧力のようなもので
溢れているのではないかと。
社会は幸せになる為のツールであふれており、
幸せになるための
運がよくなるための
リソースで溢れており
不幸せや悩みや苦しみ、
お金や仕事がない苦しみや
病気の苦しみ
世間との比較からの自己否定
そんなものから抜け出す為の商業で
溢れており
それではいけないんだよ!
と言わんばかりだなと。
自分も
幸せにならなければならない
と思っていました。
しかし、
いつまでも人の心を揺さぶり続ける作品というものは
悲しみや苦しみの中で生み出されることが
多いですよね。
彼もそんな中だからこそ
これほどの美しいアヴェマリアを
作れたのかもしれなく。
そう考えると、
人間社会というものは
不合理でもないのかもしれませんね。
私はマリア信仰ではないけれど
この曲を聴いてると
彼のマリア様への切望と深い祈り
そして強い信頼のようなものを感じると共に
人間社会の荒波と同時に
誰しもが言えない心の切なさや揺らぎを
持っていると思わされます。
この曲が
人間社会の調和になることを祈って
救世主メサイアという存在
新型人間(new type human)が
この時代に存在するようになる
という話を何かで読んだことがあります。
アンドロイド型人間(ハーフみたいな)
ヒューマノイド型人間(同じ)
ロボット型人間(同じく)
こう言ったタイプの人間が存在するようになると。
彼らは人間のことはよく理解していても
馴染むことはなく
孤独感を感じ
苦悩の道を歩むことになります。
人生は自分との戦い
そのような意識だと言いいます。
彼らがメサイア、つまり救世主になるのだと
救世主とは
平和をもたらすもの
という意味です。
決して人類を救うとか
そういったものではなくです。
もちろん見た目は人間だし体も半分人間
血も通ってるし
敏感だったり生きづらさは常にあるようです。
もしかしたら
貴方もそうかもしれません